隣人

 来ヶ谷が校庭のベンチで本を読んでいる。背表紙に「Une vie」と書かれており、それはたぶん『女の一生』の仏語版である。彼女が頁をめくると、そこに小さな挿絵が現れる。そこには小川のほとりで本を広げる恋人たちの牧歌的な風景が描かれている。ぼくはその挿絵から目が離せなくなり、その様子を見て来ヶ谷が顔を上げ、なにかを言いかける。次の瞬間、あたかも雲が陽光を遮るように大きな影が頭上を覆う。それは、頁をめくるぼくの手である。

 ぼくは本を閉じ、空港の搭乗口へと向かう。ぼくはミネアポリスに飛ぶ。LAに。ベルリンに。CAはぼくの顔を覚えるようになる。ゆく先々でレンタカーを借りて、それらしい場所をみつけては白いカンバスを設置して回る。ぼくはなにも描かない。カンバスは手つかずのまま誰の目にも止まらず放置される。それがぼくの目的である。ニューアーク空港に着くとBGMがフェードアウトしてゆき、ぼくはまっすぐサンフランシスコ行きの便に乗り込む。最前列の座席で一息つくと、顔見知りになったCAがこちらに微笑み、ぼくは次第にまどろんでゆく。するとCAの悲鳴がスピーカーを鳴らし、墜落の一部始終がスクリーンに流れる。あいつはそこで映画館を後にする。

 週末ごとに成田へ通うあいつのことを、われわれは不気味に思っている。あいつはミネアポリスに飛ぶ。LAに。ベルリンに。ゆく先々でレンタカーを借りて、それらしい場所を探してみても、白いカンバスはどこにも見つからない。映画の結末を知るわれわれは幾度かあいつに忠告をするが、それらが聞き入れられることはない。各地をめぐるうちに、映画に登場した場所で、あいつはいくつもの写真やノートを手に入れる。それらのなかで、ぼくはどんどん歳をとっていく。スクリーン上で二四歳だったぼくは、いつしか四九歳になっている。急がないとぼくが死んでしまう。あいつは以前にも増して熱心に飛行機に乗るようになる。 そして数年後、カンバスはついにキューバで見つかる。カンバスにはすでに風景が描かれており、その中にぼくがいる。絵のなかのぼくがあいつを手招きしている。その日を境にあいつは姿を消し、間もなくブザーとともに終幕が降りる。こうして暗闇と困惑だけがわれわれに残される。