暁美ほむらの孤独
『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)の結末を見届けてテレビの電源を消したとき、わたしたちはある疑問に直面する。「結局、主人公は誰だったのだろう?」という疑問だ。鹿目まどかを主人公として観はじめたはずが、いつしかわたしたちは、暁美ほむらの視点を通して鹿目まどかを眺めている自分自身を発見するのである。この倒錯した2人の主人公という構造は、『まどマギ』について考える上でたいへん重要な意味をもっている。
はじめに『まどマギ』の作品全体の雰囲気を決定づけている「伝わらなさ」について強調しておきたい。全編を通じ、魔法少女たちの想いはすれ違い続ける。けっして伝わらず、報われることもない。たとえば美樹さやかはどうだっただろう。幼なじみの音楽少年である上條の指を治すため、体内から自分の魂を抜きとってまで魔法少女になったさやかの一途な想いは、結局当の上條には伝わらなかった。彼はさやかの想いに応えるどころか、彼女の友人である仁美と付き合いはじめ、美樹さやかは絶望して魔女へと堕落するのである。賢明に彼女を支えようとしていたまどかや杏子の想いも、結局さやかに届くことはなかった。そして「最後に愛と勇気が勝つストーリー」を信じ、かつて美樹さやかだった魔女に立ち向かった佐倉杏子もまた、勝利を得ることなく死を遂げる。そして極めつけは暁美ほむらである。「魔法少女」というシステムに隠された真実を知る彼女は、彼女のただ一人の友人である鹿目まどかがキュゥべえの企みで魔法少女にされてしまう未来を変えるために魂を捧げて魔法少女になる。まどかが魔法少女になる前の世界へと戻った彼女は鹿目まどかに「魔法少女」のシステムの真実を訴えるものの、まどかが魔法少女となるように誘導するキュゥべえの巧妙な手口により、忠告の甲斐なくまどかは魔法少女になってしまう。諦めずに何度も時間の巻き戻しを繰り返す暁美ほむらは、まどかをキュゥべえの陰謀から救おうと試みては失敗するという悪夢のようなループ構造をいくつもの時間軸で繰り返すのである。このように『まどマギ』における魔法少女たちの物語は、「伝わらない」世界におけるディスコミュニケーションの苦悩に満ちている。
けっして伝わることのない想いを抱えながらグッドエンドを目指して何度も鹿目まどかを救おうとするほむらが、『まどマギ』という物語のなかのキャラクターであるだけでなく、わたしたちの側へ踏み越えた外部的な面を持つキャラクターでもあるという点には注目すべきである。そもそも暁美ほむらが何度も時間を巻き戻して同じ設定やルール(=規範)のなかでループを繰り返すという構図は、ロールプレイングゲームのプレイヤーのような側面を彼女に与えている。また、ある一定の規範が与えられた物語を何度も恣意的に読み換えているという点で、『まどマギ』における暁美ほむらの立場は、わたしたちが抱く二次創作的な欲望にも直結している。そのため、ほむらが鹿目まどかを救うための「物語」を繰り返しプレイしているという事実が明るみになった瞬間、『まどマギ』の主人公は鹿目まどかから暁美ほむらへとシフトする。わたしたちの目線は彼女の目線へと固定されてしまうのである。キャラクターに本当の意味では寄り添えないわたしたちの立場と、まどかを救えない暁美ほむらの立場は、「伝わらない」という一点によって固く結びつけられているのだ。
だから『まどマギ』において、暁美ほむらというキャラクターの内面は他のキャラクターに比べてより深く掘り下げられている。というのも、ある程度内面が深化されていない限り、わたしたちはそのキャラクターにコミットできないからである。暁美ほむらにはわたしたちを受け止められるだけの複雑な内面があった。とりわけ主人公だったはずの鹿目まどかと比べたとき、その差は歴然となる。はじめて「魔法少女になれる」と言われた時、鹿目まどか何を考えただろうか。そう、彼女はまず魔法少女の衣装を考え、それをノートに落書きしたのである。そんな彼女にいかほどの内面があったというのだろう。彼女にあるのはただ純粋なイノセンスだけだった。彼女は「魔法少女は夢と希望を与える存在である」ということを、子どもに近い感覚で信じていただけなのである。だからわたしたちは鹿目まどかのなかに、自分たちを受け止めてくれるだけの内面を見いだすことができない。まどかの内面は意図的に薄っぺらく、深層がないように描かれているからである。それに対して暁美ほむらの内面は、作中にあって常に意味深長なものとして思わせぶりに描かれている。そしてほむらの事情が明らかになってからは、その内面が執拗に掘り下げられていく。まどかに抱きつきながら「ごめんね、わけわかんないよね、気持ち悪いよね」と声を絞り出すほむらをみて、あなたは何を思い出しただろう。「気持ち悪い」、それは90年代のアニメにおける心理主義を象徴する言葉ではなかったか。暁美ほむらというキャラクターには、まさに90年代パラダイムの発想が結実している。
このようにして暁美ほむらの孤独は、わたしたちの孤独との二重写しとして描かれる。何度挑戦を繰り返してもまどかを救えず、その想いを彼女に伝えることさえできない暁美ほむらの苦悩。そして画面の中で起こる出来事をただ黙って眺めていることしかできず、魔法少女たちに寄り添うことができないわたしたちの不能感。これら2つの孤独は相似である。鹿目まどかとの約束を果たすためにほむらがどれだけ力を尽くしても、また『まどマギ』のためにわたしたちがどれだけのリソースをつぎ込んでも、それらの行為が報われることはない。報われないとわかっていながら闘い続けるというのは「絶望の道」に他ならない。そしてこの「絶望の道」こそが、魔女を生み出しているのである。
鹿目まどかによる救済と、鹿目まどかの救済
ともあれ『まどマギ』の結末を見届けたあなたは、ほむらが(それがどのような形であれひとまずのところは)救済されたということを知っている。それは鹿目まどかが魔法少女になったおかげであり、彼女によって「魔法少女」のシステムが改変されたおかげである。このようにして、魔法少女たちを救う「概念」となった鹿目まどかは、誰からも認識されず、誰にも干渉できない存在として「魔法少女」というシステムのなかに固定されることになる。完璧に「伝わらない」世界、完璧な孤独のなかに、鹿目まどかは自らすすんで身を置こうとする。これまで作中を支配していた「ディスコミュニケーションの苦悩」を、まどかはたった一人で引き受けると言っているのだ。そして付言しておくと、第10話「もう誰にも頼らない」のエピソードが、ちょうどこの時点に挿入されることになる。というのも、第一〇話においてはじめて提示される暁美ほむらの苦悩に満ちたループ構造というのは、自分の存在が消える寸前にあった鹿目まどかの視点によって描かれているに違いないからである(ここにもやはり「二重写しにされた主人公」の構図が垣間見える)。このようにして、過去と未来にあり得たすべての世界を見たまどかは、ほむらがいくつもの並行世界で自分を守ろうとしてくれていたことをここで知るのである。まどかに抱きしめられながら「ずっと気付けなくてごめん」と伝えられた暁美ほむらは、この言葉を受けて涙を流す。彼女はようやく「伝わらない」世界からの脱却を果たしたのだ。
そして鹿目まどかの言葉はほむらだけでなく、モニタを通して彼女たちを見続けてきたわたしたちをも救うことになる。まどかは言うのである「これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんの傍にいるよ」。ほむらの視点に立って物語を眺めていたわたしたちにとって、この台詞はあまりに鮮烈に響く。というのも、この台詞によって鹿目まどかは、わたしたちとすべての魔法少女たちとの別れを救済しているからだ。そう、わたしたちがアニメという媒体を通して魔法少女たちをみている以上、『まどマギ』に限らず、いつかは必ず最終回がやってきて魔法少女たちの時間を止めてしまうのである。これは一種の死別であり、それきりわたしたちは同じ時間を生きることができなくなる。だから、わたしたちはわたしたちの「伝わらない」世界に取り残され、部外者としてモニタの外に座っていることしかできなかった。しかし鹿目まどかのこの台詞は、わたしたちのなかに停滞するこの不能感を狙い撃ち、解体してしまうのである。最終回という避けられない死別の後でも、わたしたちに一緒にいてもいいのだと彼女は言っているのだ。それは魔法少女たちの死を救済する言葉であり、同時にわたしたちへと向けられた救済の言葉でもあった。「見えなくても聞こえなくても傍にいる」、それは不可視なるものの愛である。わたしたちの孤独は、不可視なるものに対する愛によって満たされることになる。
こうして全ての魔法少女とわたしたちを救済した鹿目まどかを待っていたのは3つめの、つまり最後の救済だった。それは彼女自身の救済であり、これによって彼女は神にならないことを許されることになる。誰からも認識されず、誰にも干渉できない存在として「ディスコミュニケーションの苦悩」を一人で背負おうとした鹿目まどかは、しかし本当の意味で一人ぼっちになることはなかった。まどかは一方的に救済し続けるだけの存在にはなれなかったのだ。なぜなら、暁美ほむらが彼女の救いとなり、彼女は報われてしまったからである。全てが終わった後でも、暁美ほむらは鹿目まどかのことを覚えていたのだ。救済に報いるということは、それが完全な救済であることを無効にする行為に他ならない。絶対に報われることのない純粋で一方的な救済を成し遂げることができるのは、神のような超越者だけなのである。しかし今や、ほむらの記憶によって報われてしまったまどかは完全な神ではない。完全な救済=完全な孤独は達成されず、ほむらによって報われたからこそ、まどかは「絶望の道」を歩まずに済んだのだ。
以上、「二重写しにされた主人公」によって達成された3つの救済が、『まどマギ』の結末に2つの多義的な構造を付与することになる。1つは「暁美ほむらと、彼女と二重写しにされたわたしたち」という構造。それからもう1つは、「まどかがほむらを救い、同時にほむらがまどかの救いになる」という構造である。鹿目まどかはたしかに神となったが、しかし同時に、彼女は神になることができなかったのである。
ふたたび、暁美ほむらの孤独
全てが終わった後、暁美ほむらはふたたび孤独の中にへと身を投じることになるが、いまやその孤独はこれまでの孤独とは全く異なるものだ。たしかに、彼女は人間の闇から生まれる魔獣との闘いを最後の一人になるまで続けていかなければならない。にもかからわず、彼女はこれまで彼女が歩んできた「絶望の道」からは、いまやもっとも遠い場所にいる。そう、いまや彼女の孤独は「報われる孤独」なのである。有意義な孤独と言い換えてもいい。まどかによって新たにつくられた「魔法少女」のシステムは、魔法少女たちが「絶望の道=報われない孤独」に囚われ、魔女化してしまうことをけっして許さないのだ。たしかにこの世界においても、彼女たちの祈りはやはり叶わないかもしれない。そこは相変わらず「伝わらない」世界であり、ディスコミュニケーションの苦悩は依然として解消されていないのかもしれない。しかし、それでも魔法少女たちは、最後まで闘い続けることができる。孤独のなかにありながら、絶望の道へと足を踏み入れることなく、力つきるまで闘い続けることができる。あなたは終幕の直前に挿入される暁美ほむらの戦闘シーンを思い出すことができるだろう。すべての魔法少女がいなくなるまで闘い続け、最後の魔法少女となったほむらがついに倒れることで、「魔法少女」という概念=鹿目まどかのもとに召されるあのシーンだ。たしかに、けっして叶わない祈りのために闘う魔法少女の生は、荒野を歩む戦士の生と同じものなのかもしれない。しかし魔法少女たちは、そして暁美ほむらに二重写しにされたわたしたちは、まどかによって異化された孤独のおかげで、最後まで絶望することなく闘い続けることができるのである。
ほむらの孤独は異化され、それは愛へと変貌を遂げた。もはやその孤独は、一般的な意味での孤独ではなくなっている。それは暁美ほむらにとってだけでなく、わたしたちにとっても同様である。ほむらとわたしたちは、まどかの到来を、彼女のまなざしとして感知することができる。たとえ鹿目まどかが不可視なるものであったとしても、わたしたちは彼女の愛をこうして感じ取ることができるのである。なぜならまどかは言ったのだ、「これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんの傍にいるよ」。最後の闘いにおもむく暁美ほむらへと向けられたこの鹿目まどかの言葉を、わたしたちはいつでもどこにいても、感知することができるのだから。
暁美ほむらとわたしたちに訪れた新しい孤独。それは「伝わらない」世界における、1つの愛の形なのである。ただ、その愛が目に見えないというだけで。