*** ネタバレを含みます ***
あの震災を主たる題材に据えたことに作家としての覚悟と凄みがにじみ出ており、ぼくは新海誠がはるか遠い高みへの歩みを始めたのだと知って一抹の寂しさに囚われた。誠、知っているか? オレは未だに『秒速五センチメートル』の囚人なんだよ。
天災をミミズと呼ばれる存在の運動の表出であるとする設定は、天災を防ぐという活劇を描くための道具であり、「人間−天災」の関係と「人間−ミミズ」の関係性は変わらない1。ただ、閉じ師が完璧に仕事をこなしたら天災は起きないのか? 天災の発生は閉じ師の努力不足に帰結されてしまうのか? 閉じ師に対する全人類的なサポートが不足しているのではないか? といったつまらぬモヤモヤ感は出うるかもしれない。なおミミズの映像表現はすばらしく、おぞましさや嫌悪とともに畏怖を感じることができる。
ダイジンとサダイジンまわりの設定には理解が及んでいない。小説版を読めということかもしれない。物語の構造としては、ミミズを封じる要石(人柱)に意思を与えることによって主人公たちの葛藤を導入している。
本作はループ物であり、そのループにはSF設定としてのロジカルな納得感はないが、感情面での納得感がすごすぎて視聴者の感情をグチャグチャに破壊し創生することによって成立しているように思える。この点は『君の名は』や『天気の子』にも通じる新海誠スタイルという感じがする。
実在の災害を題材に創作することには危うさが伴う。本作の、人は死ぬけれどでも一日でも長く愛する人と一緒に生きたいと願っているし、それは祝福されなければならないという着地点には、そうだよな、それしかないんだよなという思いがある。4歳の自分の絶望に対して、いまの自分がこうして成長できたんだよと告げることにも、そうだよな、それしかないんだよなという思いがある。一方で、3.11の直後のタイミングの作品としてこのメッセージが与えられたと考えると、受け入れられるかは難しいとも思う。逆に今から10年後に同じことを問うてもおそらくダメだと思える。本作は災害から12年経った今のタイミングで描かれるべきものであり、これにバランス感覚を持ってまっすぐ取り組んだ新海誠という作家の凄みにいたく感じ入ってしまう。
『天気の子』で東京に雨を降らせ続ける選択をした帆高と陽菜に対して、鈴芽は東京上空でミミズに要石を打ち込む選択をする。それはロードムービーパートでお世話になった人たちがいたからだと思える。『天気の子』において社会は帆高と陽菜の敵だったが、鈴芽にとって人々は味方であり守りたい存在だったということだろう2。
ぼくは今日もまだ『秒速五センチメートル』と『言の葉の庭』の虜囚だ。誠、お前はオレたちのことは振り返らず、ただ歩み続けろ。お前が信じるその覇道を。
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