三階建ての現

 昔から一度やってみたいと思っていたのだ。ぼくらは周りに誰もいないことを確認してから、勢いよく下りのエスカレーターに突入し、登りはじめた。ぼくが先頭で、四階の駐車場ヘ向けてエスカレーターを逆走する。後ろにみっちゃんが続く。全力で走っても全然体が前へ進まない。半分くらいまで登ったところで、エスカレーターが伸びはじめていることに気づいた。「後ろがなくなってるぞ!」背後で叫び声が聞こえる。振り返る余裕はないので、とにかく頑張って走りつづける。後ろからドカドカした足音が続く。どんなに走っても四階はやって来ない。むしろ後退しているようにも思われる。《後ろがなくなってる》とはどういう意味だろう。エスカレーターの下が文字どおりなくなっていて、このまま走りつづけないと奈落の底へ落ちていってしまうんだろうか。ふと、背後の足音が聞こえないことに気づく。慌てて振り向くと、そこはもう奈落の底だ。
 飛び起きる。どうやら机に突っ伏して眠っていたようで、目の前にタイプライターが置かれている。それは数年前に古物商から買ったもので、周りの作家が皆ワープロを使っているなか、ぼくはそれを使いつづけている。タイプライターの口から、書きかけの小説がのぞいている。そこにはエスカレーターを逆走する二人の少年の様子が書かれており、二人が奈落の底に落ちるところで途切れている。携帯を見るとみっちゃんの電話番号が登録されているようなので、彼を呼び出す。一時間たって玄関のチャイムが鳴る。ひとまず居間に通してお茶も出さずに「どうも混乱している」と口火を切ると、彼は深刻そうな顔でこたえる「でもこれが現実だ。さっきのエスカレーターから落ちるまでのおれたちと、今のおれたちは確かにつながっている」諦めの滲んだ声でこうつづける「とにかく続きを書いてみることだ。そうすれば、なにが起こっているのか分かる。これからなにが起こるのかも、分かるかもしれない」そう言い残して彼は帰る。ぼくは続きを書くことにする。

++続きA++
 奈落の底は別に奈落の底ではなかった。普通にデパートの三階に降り立ったぼくは、みっちゃんの姿を探す。彼はおもちゃ売り場にいて、試遊スペースでヘッドマウントディスプレイを被り、左右の手にそれぞれコントローラーを持って、VRゲームをプレイしている。隣接する平面ディスプレイに彼が見ている光景が映し出されている。そこはどこかのデパートの中で、プレイヤーである彼は下りエスカレーターを走って登ろうとしている。コントローラーをガチャガチャやって小刻みにジャンプを繰り返しながら悪戦苦闘するが、どうしてもエスカレーターを登ることはできない。ゲームプレイング上の制約だろうか? 登るのを諦めてフロアを少し進むと、おもちゃ売り場が見えてくる。その光景が映るディスプレイと現実のおもちゃ売り場とを、ぼくは交互に眺める。ディスプレイがVRゲームの試遊スペースと、そこでヘッドマウントディスプレイを被るみっちゃん、そして隣のディスプレイを眺めるぼくの姿を捉える。ディスプレイの中のディスプレイがディスプレイを映し出しており、そのディスプレイが映し出すディスプレイの中にまたディスプレイがあって、ディスプレイの中のディスプレイの中のディスプレイの中のディスプレイの中のディスプレイの中のディ

++続きB++
 奈落の底へ落ちるぼくを書いているぼくがいる。それがはっきりした今、みっちゃんは二人のぼくがつながっていると言うけれど、どうしたって書かれている側と書いている側との間には決定的な隔たりあるように思えてならない。こちら側からこちら側を書く高次のあちら側は見えない。そしてまた、もしこの話に続きがあるならば、必ずそれは既に書かれているのだと思わずにはいられない。こちら側を書く高次のあちら側で。あるいは、さらに高次の向こう側で。こちらから見えない以上、安易にそれを否定することは出来ない。今こちら側を書いているぼくは、まるで自分が全能の有翼人種であるかのように思っているだろう。でもそれは間違いだ。井戸の中に建てた城はずっと井戸の中にあり続けるしかない。彼はただ、自分が誰かに書かれているということに、まだ気付いてないだけなのだーーここまで書いてぼくは万年筆を置く。こうして縮尺一分の一の地図を書いているあいだ、彼女は黙ってピアノを弾いている。「未散」と呼ぶと、彼女は演奏を止める。その瞬間世界は凍りつき、あらゆる事物が静止してーーぼくはそっとワープロを閉じる。少し熱を持ったワープロの背に両手を当てて、さらに向こう側がもう現れないよう、できるだけ静かに祈りを捧げる。

++続きC++
 奈落の底を落ちる間、重力加速度を感じなかった。等速で下へ向かって、でも、下ってどっちだ? 加速度がなければ静止しているのと一緒だ。どこか遠くからタイプライターの音が聞こえる。大声でみっちゃんの名前を叫んでみるが、返事はいっこうに聞こえない。代わりにタイプライターの音がどんどん近づいてくる。恐ろしさに耳を塞いだ瞬間ーーぼくは世界を貫通している。そこでタイプライターを叩くぼくは、紙送りから吐き出されて机の上に横たわる存在に気づいてないようだった。天窓から差し込む陽光が、仰向けになったこの顔を執拗なまなざしのように照らしていた。たまらずタイプライターを踏み台にして飛び上がると、身体がどんどん天窓の方へ吸い込まれーー気がつくとぼくは巨大な原稿用紙の上を走り回っていた。頭上からこちらを追い立てるように走る万年筆のニブが青い道を刻んでいる。一体どうなってる! 息を切らして走り続ける。やがて青い道がクリーム色の大地の端に到達すると、突如大地が翻ってすべてがもみくちゃになりーー気がつくとぼくは、ワープロの前に座るぼくの背後に立っていた。彼はワープロを閉じ、なにか祈りを捧げているようだった。もう迷う必要はなく、ぼくは彼の先へと貫通するため、彼の首に手をかけた。