静かな豪雨

 「静かな豪雨」をテーマに小説を書けと言われて書きはじめる。はじめに考えるのは、「静かな豪雨」をどのように実現するかだ。豪雨は一般的に激しい雨音をともなう。それどころか、「豪雨」という単語そのものが無条件に騒々しさを想起させるのである。そこへどうやって静けさを付与するのか。思いついたのは、耳の聞こえない主人公を登場させてみることである。この安直な思いつきにしたがい、まずはじめに聾唖の男があらわれる。

 聾唖の男はベッドタウンの一軒家に一人で暮している。男は作家だが、聴力を失ってからは一作も書けない。脳と目と指さえあれば書き続けられると信じて疑わなかったのだが。そこで男は生活のために、彼の《耳》を雇うことを決意する。
 どうせ雇うなら若い女がよい。文化的素養のある若い女だ。ただし、かならずしも文学に精通している必要はない。むしろ小賢しい文学的修辞とは無縁であるほうが男としては都合がよい。《耳》には純粋に聴力をのみ提供してもらい、その先はすべて作家の仕事とする。比喩やレトリックを駆使する《耳》ほど厄介なものはない。また、郊外にある男の自宅まで通うために、自由に車を扱える必要がある。手話に通じている必要はない。ディスプレイ上で会話することになるから、タイピング速度は重要である。新聞に広告が出され、女が面接を通過するまでに三ヶ月が経過する。
 女の表現には見事に飾り気がない。それは一つの才能である。かように質朴な文章を物す人間がいたという事実に舌を巻く。女は作家の描写に必要な音を文章の形で提供する。ときには取材に出かけて音を蒐集し、作家の《耳》としての役割を十全に果たす。やがて女は男の家に住み込みではたらくようになる。「君は素敵だ」という言葉が夜のベッドでノートに綴られる。
 ある日、女は異質な音が聞こえる旨をディスプレイ上で告げる。男は困惑する。家のなかに響くという犬の鳴き声。男にはペットを飼っていた経験さえない。聞き違いなのではないか? 男は筆談用のノートに綴る。なにしろ窓の外は大雨だ。雨や雷の音を、聞き違えたのではないか? もうじき一作書き終える。変な音のことなんて忘れてしまえ、と。
 しかし《耳》の変調はエスカレートする。それから一週間後、男の《耳》は肉の裂ける音を聞き、したたり落ちる血の音を聞き、声にならない声を聞く。だが降り続く豪雨の音はついぞ聞かれない。男は担当者を尋ねて出版社へ赴き、そのままビルの九階を飛び降りる。

 「静かな豪雨」と題した小説を書きおえて息をつく。すると机の上に男が仰向けに横たわっている。起きだした男は、どうやら聾唖のようである。男は一冊のノートをこちらへ手渡し、そのまま立ち去る。