『劇場版 魔法少女まどかマギカ [新編] 叛逆の物語』を観たので、その感想をまとめておきます。
テレビシリーズのこと
テレビシリーズの最後で概念化した鹿目まどかについて、当時ぼくが考えたことは以下のようなことでした。
- 鹿目まどかの犠牲によって新しい世界ができる過程が美しすぎること。ぼくはあの結末が、不当に美しいと感じた。たしかに魔法少女たちのユートピアが完成し、物語はハッピーエンドを迎えた。しかし、あの鹿目まどかの人間離れした決断はどこからやってきたのか。そもそも一話から鹿目まどかに人間らしいところなんてあっただろうか、という疑いさえ浮かんでくる。鹿目まどかは本当に人間なのか? 少女の殻を被った真空に過ぎないのではないか? そして一方で、そんな鹿目まどかを思い続ける暁美ほむらの人間臭さときたらどうだろうか。二人は対極に置かれているように思える。
- 暁美ほむらは概念となった鹿目まどかを想い続ける。概念はいつも心の中にあって、たとえ会えなくても一緒にいるのだと信じて魔獣との戦いをつづける。暁美ほむらはきっと、自分には見えなくても、鹿目まどかはいつも自分を見ていると感じているのだろう。宗教家が神を信じるようにして、暁美ほむらは鹿目まどかを信じているのだろう。暁美ほむらはふたたび孤独になったけれど、しかし同時に救われてもいると感じる。鹿目まどかを心に住まわせることが、暁美ほむらがたどり着いた”愛”の形なのだろう。
テレビシリーズを観終わって、ぼくは自分が暁美ほむらの視点に立って物語に接していたことに気付いたのでした。そして今回公開された『叛逆の物語』についても、この姿勢は変わりませんでした。
『叛逆の物語』を観て、ぼくは『魔法少女まどかマギカ』が完成したのだと思いました。テレビシリーズで受けた違和感が氷解したからです。
どうしてそう感じたのかを言語化したいと思って、以下の文章を書きます。
暁美ほむらの信仰の破綻
さっき「宗教家が神を信じるようにして、暁美ほむらは鹿目まどかを信じた」と書きましたが、『叛逆の物語』は、この暁美ほむらの信仰が破れてしまったところから始まります。テレビシリーズの最後で鹿目まどかを心の中に住まわせ闘いの中に身を投じた暁美ほむらだったけれど、結局、その信仰に似た形の愛は破れ、彼女は魔女になったのです。
『叛逆の物語』がクライマックスに差しかかったところで、われわれは暁美ほむらの中に、テレビシリーズとはまったく異なった、別の形の愛が育っていたことを知ります。この、クライマックスで暁美ほむらがインキュベーターに対して叫んだ愛こそが、ぼくがテレビシリーズに対して抱いていた違和感を消し去ってくれたのだと思います。
「愛」という言葉にはたくさんの意味がありますね。たとえば、元々あった仏教的な意味の愛に加えて、キリスト教的な意味の愛が上書きされたという事情があります。
キリスト教が本格的に結婚式を乗っ取る明治以前の「愛」の意味は、欲望や迷いの根源としての意味が強かったといいます。
これはトリビアですが、戦国武将の直江兼続の兜に掲げられた「愛」の文字は、仏教の愛染明王から取られているそうです。きっと上杉謙信の兜が毘沙門天の「毘」だったのをまねて、世紀末ダークヒーローでも目指していたのでしょう。
仏教的な愛も、キリスト教的な愛も、どちらも「愛」には違いありません。暁美ほむらが劇中で云った愛にも、彼女の意図する意味があるはずです。
美しい世界への叛逆
信仰破れた暁美ほむらの変容した愛がもたらしたのは、美しい世界のシステム(円環の理)の破壊であり、美しいファンタジーの破壊でした。美しいファンタジーは、暁美ほむらを救えなかったからです。
劇中でインキュベーターが暁美ほむらに提案した救いは、奇しくも円環の理そのものでした。円環の理に導かれて魔法少女が救われるシステム。しかし、暁美ほむらはこのシステムに救われることを拒んだのです。99%の魔法少女たちが幸せになる理を、残りの1%である暁美ほむらが破壊します。
円環の理はユートピアでした。暁美ほむらはユートピアを破壊したのです。
このおそろしい叛逆を前にして、われわれははじめ言葉を失うか、なんてことしやがるこのクソレズサイコ野郎! と罵ることしかできません。
しかし場面が進むにつれて、この暁美ほむらのおそろしい選択が、彼女の愛が、ユートピアでは充足されえないことの絶望を反映しているのだと思いあたります。
ここに至ってわれわれは気付きます。高度に完成された自由や幸福は、行きすぎた制限や理不尽と区別が付かないのだということに。
暁美ほむらは鹿目まどかによるユートピアの犠牲者だったのでしょう。
暁美ほむらは愛のゆえに悪魔となって、鹿目まどかの理を書き換えましたが、ぼくにはこの様相が、いとおしくて堪らないのです。
このむせ返るような人間くささに、あてられてしまったのかもしれません。
鹿目まどかの愛と、暁美ほむらの愛
『叛逆の物語』の最後で、暁美ほむらは概念化した鹿目まどかのうち、人の部分だけを抽出して自分のそばに置きましたね。この行為は、自らの愛の対象を偶像化したい欲望の発露であったと思うのです。
テレビシリーズの最後で信仰を手にした暁美ほむらは、偶像を欲しませんでした。その愛が偶像を要求しなかったからです。
しかし、悪魔となった暁美ほむらは偶像を欲しました。これは彼女の欲望の現れで、彼女の熱狂的な愛が、それを欲したのです。
暁美ほむらの愛がこのように熱狂的であるのに対して、鹿目まどかの愛は、まったく正反対の形をしているように思えます。
鹿目まどかの愛は、無差別の愛なんじゃないか、というのが、テレビシリーズから通してのぼくの感覚です。彼女にとって対象の区別はないんじゃないか。
あれほど熱烈に彼女を愛する暁美ほむらに対する愛と、マミさんやさやかちゃんに対する愛は、同じくらいの重さであるように思えてしまいました。
もしかして鹿目まどかの愛は、自分を愛するようにして隣人を愛するものの愛なのではないか。もし暁美ほむらの愛を、人間的な愛と呼ぶのであれば、鹿目まどかの愛は、神の愛なのではないか。
だからぼくは『叛逆の物語』は、暁美ほむらの信仰が破れ、結果として神が死ぬ物語なのだと思えて仕方がありません。
神の不在の中で暁美ほむらは、己の罪深い愛と向き合いながら、戦いを続けていくのです。
たとえ全ての魔法少女たちを敵に回すことになっても、暁美ほむらが人間である限り、自分の愛を裏切ることはできないのです。