ミヒャエル・ハネケの映画

数年前に友人と自宅でミヒャエル・ハネケの映画を7本連続で視聴して完全に発狂した時の感想です(ネタばれあり)。

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愛、アムール 

  • 場面のつなぎ方がすごすぎる。「撮らない」という手法:決定的な場面を撮らずに次の場面が始まって、視聴者にその決定的な場面を想像させるということ。映画を見終わってしばらくするとその存在しない決定的な場面をありありと思い出してしまうほど、ハネケは視聴者の想像力につけ込んでくる。ハネケは視聴者の脳を使って映画を作っている。悪辣極まりない。俺の脳を盗むのを今すぐやめろ。
  • 家の中のシーンしか存在しない。カメラの位置も固定されていて、閉塞感がすごい。結末、エヴァがすべての扉が開かれた家を歩くシーンで、こんなに開放的な家だったのかと驚かされる。
  • 自分が自分ではなくなってしまうというアンの恐怖に実感がこもっている。これはアンを演じた人がヤバすぎる。そして、唐突にアンの自我が一気に失われた後の場面(エヴァとの会話が成立しなくなるシーン)をねじ込んでくるあたりは白眉で、ハネケはこうやって今回も現実と虚構のリアリティを越境してくる。
  • クライマックスのあのシーンンの唐突さが素晴らしい。現実にそういうことが起きるときは、部外者からみればいつも唐突に見えるのだろうと思わされる。これがぼくらがリアリティと呼んでいるものの一端なんだよな。
    • いかにも映画的な、作劇法とか演出のわざとらしさというものをハネケは嫌う。ここだけは唯一お前と気が合うところだよ、ハネケ。

セブンス・コンチネント 

  • 主人公一家とわれわれ視聴者との間のディスコミュニケーションである。これが作中人物同士のディスコミュニケーションにならないという点に、長編デビュー作ならではの作家性が見られる。ハネケは、作品を鑑賞することによって視聴者にはたらく作用に執着する。ハネケ作品は視聴者を内包しようとしてくる。ここからファニーゲームに至るまで、この執着は一貫しているように思える。

ベニーズ・ビデオ 

  • ハネケの映画はいつもそうだが、撮影者 – 被撮影者の関係にたいへん自覚的な映画だ。撮影者であるベニーは、同時にハネケによって撮影されている被撮影者でもある。これによって、視聴者であるわれわれは、ハネケによって撮影されたベニーを鑑賞する存在であると同時に、ベニーが撮影した映像をベニーたちとともに鑑賞する存在でもある。作中に視聴者であるわれわれが取り込まれる。
  • 他者(視聴者を含む)のベニーに対する共感できなさが際立つ。ベニーとその両親とのディスコミニケーションは素晴らしい。ちなみにベニー自身も少女を殺害した後に突然頭を丸めるなど、明らかに動揺している事がいちおう伝わってきて、この中途半端に分かるという宙吊り感がまた嫌らしい。ベニーを簡単に異常者にカテゴライズすることは許されない。ファニー・ゲームでパウルたちが一見して論理的に会話しているように見える恐怖と根は同じかもしれない。彼らにも論理と合理性があって、もしかしたらそれが理解できるのかもしれないと思えてしまうギリギリの境界を渡らされるのである。

ファニー・ゲームおよびファニー・ゲーム U.S.A 

  • これを二本連続で観るの端的に言って狂ってるでしょ。
  • パウルたちとジョルジュたち一家とのディスコミュニケーションである。これはまるでパウルたちがビデオゲームのプレーヤーであるかのようなディスコミュニケーションであり、まさにパウルたちが作者ハネケおよびわれわれ視聴者と同じレイヤーにいるということの明け透けな表現である。
  • クライマックスの巻き戻しのシーン。これによってはじめて、物語の序盤からパウルは失敗する度にゲームのリトライのように巻き戻しながらこの結末までやってきたのだろうかと想像させられる。ループものの提示の仕方としてスタイリッシュだ。
  • これほど残虐な描写を作ることが出来るということの驚異を、映像という媒体の驚異を、視聴者に見せつける事が本作の目的の一つであるように思える。これがあくまで虚構であることをメタ描写(パウルのカメラ目線、巻き戻し)で執拗に思い出させることで、作者の狙いを親切に教えてくれている(そうじゃないとさすがにセンセーショナルに過ぎる、というハネケなりの手心なのかもしれない)(俺は絶対にハネケを許さないからな)。
  • オリジナル版の方が演技が切実というか、犠牲者の鮮烈な悲壮感が感じられる。USA版は、悪い意味での映画っぽさを感じさせた(でもこの「映画っぽさ」は、多分作品に内在する者ではなく、われわれ視聴者の頭の中に内在するものかもしれない)。
  • アンが逃走中に最初の車をやり過ごして、二台目の車がやってくるシーン。ハネケの悪辣さがにじみ出た希有なシーンだ。
  • ハネケは映像という表現手法に対して自覚的で、映像表現そのもののレイヤーで映画を作っている。ハネケは、われわれが住んでいる現実世界から逃れられないタイプの作家だろう。ハネケに王道ハイ・ファンタジー映画は絶対に撮れない。悔しかったら撮ってみろよハネケ。

隠された記憶 

  • 犯人から送られてきた映像を鑑賞するとき、ジョルジュたちとわれわれ視聴者は同じレベルにいる。ベニーズ・ビデオと同様に、視聴者を内包した映画である。
  • 結局ジョルジュにビデオを送りつけてきた人物が何者なのか、作中では回答が用意されていない。でも、この映画を最後まで見れば自ずと解ってくることなのだが、犯人は作中人物ではないのである。本当は、監督であるハネケ自身が、ジョルジュにビデオを送りつけているのである。視聴者を内包した映画であるならば、作者をも内包していると解釈しても怒る人はいないだろう。
  • つまり本作に於いて、ディスコミュニケーションの対象は作中に存在しない。この点はハネケの他作品に対して新奇な点と言える。

ハッピーエンド 

  • 今回見た作品群で一番印象が薄い。印象が薄いと言うことは、ハネケ作品においてはいい映画と言うことなのかもしれない。

まとめ

14時間にも及ぶ過酷な映像体験だった。

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