『リズと青い鳥』の感想を箇条書きで記しておきます。
- 最高の一言に尽きる
- まず演出の密度が濃過ぎて付いていけない。1/10倍速で見せてくれ
- 劇伴、音響が最高。冒頭のぎこちない音の断片(聲の形を彷彿とさせる)と、少女たちの靴音が混ざり合う感じ、始まる前のふわついた雰囲気、演奏前のステージでチューニングが始まるあの感じ。そこから傘木希美がやってきて徐々に音楽が紡がれていく、果てしない高揚感
- 鎧塚みぞれが登場してから傘木希美と2人で部室に入るまでに丸々5分間は費やしており、この時点で画面は情報の洪水めいている。必ず傘木希美の後を付いていこうとする鎧塚みぞれと、間違いなくそれを知っていて言葉少なに歩く傘木。急に階段の手すりから笑顔をのぞかせる傘木と、それを眩しそうに、驚いたように見やる鎧塚みぞれ。踊り場に出た鎧塚は階段の上を振り仰ぐが、カメラは階段を斜めに撮る(視点の主である鎧塚の不安が垣間見える)ばかりで傘木の足を画面の端にかろうじて捉えるのみ、階段の上は陽光が充ちて明るく、その光の中へ弾むように歩き出す傘木(この瞬間の傘木は間違いなく”鳥”だった)をやはり眩しそうに眺める鎧塚みぞれ。部室の鍵を差し込む鎧塚は一拍おいてから鍵を開ける、鍵を開けることに億劫なように、ともすればこのままドアの前で日が暮れるまで佇んでいたいと思わせるほど長い”一拍”ののち、開かれた部室に傘木は踊るようにくるりと回転しながら入っていく。これまで何度も繰り返されてきただろう二人の朝の情景、その日常に埋没して見えないはずの決定的な一回性が、ここでは痛ましいまでの緻密さで描き出されている。それがいずれ夢に回顧されるだけの幻となることが運命付けられていることを、この日常は、痛切に物語っているのだ。
- 二人で絵本を眺めながら、傘木に寄りかかろうとする鎧塚みぞれの髪が傘木の肩に触れるか触れないかのあわい、不意に立ち上がる傘木。お前は絶対にそのことをわかっていて、それでギリギリのところでたまらず立ち上がったんだろう? オレにはわかる。傘木、お前はこの時、鎧塚に踏み込まれることがなぜだか無性に怖くてたまらなかったんだろう? オレにはわかるんだよ、傘木。
- 時折挿入させる抽象的な水彩、鎧塚みぞれの心象風景。
- 鎧塚みぞれの、不安を感じた時に髪に触れる仕草。傘木希美の、気まずい時に後ろに組んだ手を遊ばせてしまう仕草。鎧塚みぞれの、気まずい時に手元の作業をなんとなく止めずに続けてしまう仕草。すべてが胸に刺さる。そうだ、この映画には確かに、鎧塚みぞれと傘木希美の”匂い”と”体温”がある。オレはその瞬間北宇治高校の周りを満たす空気になって、彼女たちの匂いと体温を、確かにこの身のうちに内包していたのだ。オレはいま、自らのうちから失われてしまった彼女たちの体温を、こうして探し続けている…。
- フグの水槽に撒き餌する鎧塚みぞれ。フグには毒がある。俺にはわかるんだよ、鎧塚。
- 対人関係において比類なく正しい人間のように描かれていた傘木が、音大を受けるという鎧塚みぞれに対してのみ垣間見せる焦りと嫉妬。この映画のプロット上のキー描写だ。
- 自分を青い鳥に見立てて言う「青い鳥は、会いたくなったらまたリズの所に帰ってくればいいんだよ」「でも、ハッピーエンドじゃん?」の傲慢さなんだよ。鎧塚との間に横たわる感情の不均等さによってアイデンティティを補う自分の醜悪さを自覚しながらもその精神的依存から抜け出せない傘木の自意識。
- それにしても、一度部活から離れた傘木が練習を重ねてオーディションを突破したという事実だけで涙が出てしまう。この映画が始まる前から、傘木は鎧塚を必死に追いかけてきたのだ。しかもそのこと自体を一切説明せずに、過去を省みるシーンもなく、現在の描写だけで見事に描き切っている(特に剣崎の涙が傘木の努力を遡及的に裏付けた)。精確無比な描写のバランス感覚。こうして、傘木を追いかける鎧塚という構図から、鎧塚を追いかける傘木という裏の構図が徐々に浮き彫りにされていく。
- 鎧塚が剣崎をプールに誘ったエピソードは、傘木へのあこがれを昇華して鎧塚が少しずつ成長していることを示しているし、剣崎はかわいい。
- 自分が傘木に対して抱いていた感情と、傘木が自分に対して抱いていた感情が対称だったことに気付いた鎧塚の心象風景はオレンジと青が渾然となっていた。これは明らかに童話の結末の中においてリズ(オレンジ)と青い鳥が離れていても結ばれている:jointことを象徴していて、鎧塚がたどり着いた”答え”を明確に示している。
- 鎧塚みぞれが羽ばたいた第三楽章。究極の劇伴。この映画を劇場で観なければならない最大の理由。
- 自分との出会いが嬉しかったと告げられ「ゴメン、よく覚えてない」という傘木。しかし理科室を後にする傘木が思うのは、自分が鎧塚を誘った日の克明な記憶だ。そうだ、傘木は理科室で意図して嘘をついた。そしてこの嘘は鎧塚への依存から脱却する意思であり、青い鳥を羽ばたかせたいという意思なのだ。そしてなにより、傘木にとっても鎧塚との出会いが特別でかけがえのないものだったということが示されるこの回想(そもそもこの映画におけるカメラは基本的に傍観者に徹しており回想シーンは特別な位置を占めている)は、この映画を観る者に与えられた救済なのだ。
- 「みぞれのオーボエが好き」こそが傘木の内で鎧塚を囲っていた鳥かごを開けた鍵に他ならない。こんなに簡単に開けられたんじゃん、と吹き出して笑う傘木。歪だが対称的だった依存関係からの脱却。ここで傘木は鎧塚の才能に対する嫉妬心を、自分の自意識の醜さをさらけ出したのだ。そしておそらくここで鎧塚ははじめて傘木が何を欲しがっていたのかを知ることになったのだろうとも思う。
- この映画の結末、一見して鎧塚と傘木はお互い決別:disjointしたように見える。傘木に気持を伝えた鎧塚の言葉の中に「希美のフルートが好き」という言葉はなかった。鎧塚に伝えた傘木の気持は「みぞれのオーボエが好き」だけだった。この非対称が決別のように思え、確かにその後傘木は受験勉強を始める。しかし、これはぼくが思うに決別ではない。二人は自然な形に収束し、結合:jointしたのである。互いが互いに依存することをやめ、互いの気持を確かめあい、互いの道を歩み始めたということだ。それでも同じコンクール、高校最後のコンクールを目指す二人の道は随所で交差している。交差する道を、時おり同じペースで歩くことができる。それは全面的に許されている。この映画の結末で家路につく二人の歩みはことに感情を揺さぶるシークエンスだ。これは、この映画の冒頭で傘木がリズと青い鳥に対して提案したハッピーエンドの形にほかならないではないか。お互いに違う世界を目指し、違う世界を生きつつも、つかの間同じ道、同じ時間を共有すること。それは人間一般二人が苦楽を共にし、共に長く生きていくということに他ならない。二人は自然な形に収束し、こうして人生のパートナーとして結合:jointしたのである。
(ここから二回目視聴時感想)
- 自分を青い鳥に見立てて言う「青い鳥は、会いたくなったらまたリズの所に帰ってくればいいんだよ」「でも、ハッピーエンドじゃん?」の傲慢さなんだよ。鎧塚との間に横たわる感情の不均等さによってアイデンティティを補う自分の醜悪さを自覚しながらもその精神的依存から抜け出せない傘木の自意識。それが理科室での「あたし、みぞれが思うような人間じゃないよ」に繋がっている。
- 先生に音大を勧められたと鎧塚に告げられたときから、自分が青い鳥ではなくリズなのだということに決定的に気づいてしまった傘木は……プールに「わたしも友達誘っていい」という鎧塚に対する一瞬の表情の痛々しさがたまらないんだ……
- 終盤前まで二人のボタンのかけ違い感がそこはかとなく示され続けるこの恐るべきバランス感覚。ここが完璧に表現されているからこそ、理科室の後の二人の、ようやく互いに向き合うことができたときのカタルシスが生まれる。
- 例のオーボエソロでカメラのピントがずらされるのは傘木の涙による。
- 鎧塚に自分との出会いが嬉しかったと告げられ、「ごめん、それよく覚えてないんだよ」という傘木。しかし理科室を後にする傘木が思うのは、自分が鎧塚を誘った日の克明な記憶だ。そうだ、傘木は理科室で意図して嘘をついている。そしてこの嘘は鎧塚への依存から脱却する意思の表れであり、青い鳥を羽ばたかせたいという意思なのだ。そしてなにより、傘木にとっても鎧塚との出会いが特別でかけがえのないものだったということが示されるこの回想は、この映画を観る者に与えられた祝福なのだ。おそるべき幸福感がこのシークエンスのあと味となってぼくの胸の中でアイスクリームのように溶けていく……
- つかず離れずの二羽の鳥。
- 「あたし、みぞれのオーボエを完璧に支えるから。もう少しだけ待ってて」は、理科室での三回目の「ありがとう」の猶予の続き。「わたしも、オーボエ続ける」この会話は二人の未来を示唆しているように思えてならない——joint